プロフィール

代表・伊東 義暢

ITOU YOSHINOBU

YIデザイン工房/伊東 義暢
伊東 義暢

生い立ち

BIOGRAPHY

私は35歳の時に統合失調感情障害と診断され、5年前までは入退院を5回繰り返していました。私自身、その病気に納得はいってなくて今まで入院・通院と服薬をしてきました。私は、書籍やインターネットで自分自身の本当の病気の根源が何なのかを日々調べていました。そうした折、私は発達障害かと関連付ける出来事がありました。
44歳の時でした。きっかけは、父との会話の中で、「お前は小さい時から一度言ったらほかの人の意見を聞かない。視野が狭い。引きこもり気味。」と言われた事でした。それまで自分は幼少期からの事を振り返るということをあまりしてこなかったので、生まれた時から今までのいろいろなエピソードを振り返ると今の自分の病気が分かると考え色々と思い返しました。

幼少の頃

伊東家の長男として1974年12月25日に大分県佐伯市に生まれました。両親とも若くして結婚。当時の写真が残っていたので見てみると、よく母方の祖父母の家に遊びに行っていた。この頃の私は元気に外で走り回り、壊れた時計などを分解し再組立てをするのに熱中していたことをよく覚えています。
今の自分も物の作成や修理などが好きなのは生まれ持ったものなのかもしれません。幼稚園の頃は、よく給食時間に女の子のエプロンを引っ張り、先生によく注意されたのを覚えています。

小学生の頃

小学校一年生の頃は、授業に集中できず落ち着きのない友達とよく隣の教室のベランダから紙飛行機を室内へ投げ入れ注意されたのを覚えています。この頃、宿題の国語で音読があり私自身、「吃音」があり母親からよく怒られていたのを覚えています。
小学一年の頃は勉強したというより学校にただ遊びに行っていたという記憶しか残っていません。それから小学二年の時に父方の実家の隣の新居に引っ越しました。小学一年のころはマンモス校で、引越し先の学校は1クラスのみ30人少々の少人数でした。いざクラスに入るといきなり初日に同姓の男の子とのケンカで幕を開けました。引っ越したばかりではありましたが主張はしっかりしていました。このケンカ後はしばらく大人しくしている日々が続きました。
小学五年生の頃に少年野球に入部しました。入部した理由は、単に友達の誘いで即決し衝動的だった記憶があります。したがって練習も最初は楽しかったですが次第に飽きてきました。しかし、サボったりしたことはありましたが最後まで辞めずにできました。いやようにもこの頃に基本的な挨拶・礼儀は培われたと感じています。またこの頃よく急に息苦しくなり倒れ込む時が多くなりました。また教科書を隠されるなどの多少の「いじめ」にもあいました。未だに理由はわかりません。この頃の自分の将来のことについてはちょうどノストラダムスの大予言が流行っていた時代ともあって、私自身、テレビや本の情報を信じ切ってしまい、「将来の事を考えても人類は滅亡するのだから」と計画しませんでした。その考えは、中学生になっても変わらなかったです。
しかし自分の欲しいものがあると絶対に譲らなかったです。デパートで大きい声で駄々っ子になったりもしました。小学時代の遊びといえば特定の友達と遊んでいましたが一人で遊ぶのが一番楽しかったです。

中学生の頃

中学校は小学校よりも規模が大きくなり、他校から始めてみる顔がクラスの3分の2を占めました。部活はサッカー部へ入部しました。やはりこの頃「キャプテン翼」が流行り衝動的に入りました。2年の頃は学校での素行は良いほうではなかったです。3年になって高校の進路を考え出すと素行は良くなって行きました。
この頃の一番記憶にある事と言えばやはり進学先で悩んだことです。勉強があまり好きではなかった私は、それまで私の身内はみんな進学校へ通っていました。私には関係ないと言い聞かせていましたが、どこかで気にはなっていたと思います。でも私は自分の決めた就職コースの高校へ進学しました。この頃の自分といえばやはり特定の友達と遊ぶか一人で過ごすことで落ち着いてました。

高校生の頃

中学よりも人数が多く友達とも別れ別れとなりました。入学式の時、突然に苦しくなりその場に座り込みました。何とも言えない不安の中のスタートでした。それから3カ月位は高校に馴染めずほとんど不登校でした。この頃に両親より病院を勧められ受診すると「自律神経失調症」との診断でした。当時は受け入れるしかなかったです。1年の夏休みになり、甲子園を見ていると無性に野球がしたくなり、またも衝動的に野球部に入部しました。結果1カ月と持たなかったです。しかしこのことがきっかけで勉強、特に商業経済・簿記に特化して成績を上げていきました。たぶん自分の負の部分を好きな分野の勉強で打ち消そうとしていたのだと思います。
2年になると友達の誘いで夏休み等にアルバイトに打ち込みました。このアルバイト先が将来自分の最初の就職先となります。アルバイトの内容は冷蔵庫の部品の製造で自分は楽しくなり夢中で組み立てました。時間・疲れも忘れていました。3年になり就職進路指導で真っ先に決めて応募しました。結果採用となりました。就職先も決まりいよいよ自動車免許取得へ向けての勉強が始まりまし。学科は問題なく合格しましたが、実際の運転の練習で何度か「見極め」をもらい他の人に比べ遅れをとりました。でも何とか合格しました。この頃は、一人でいるより友達と話をする方が楽しかったです。そして卒業となりました。

新社会人の頃

自分の好きな会社に入り自分の好きな経理の仕事ができると思うと心が抑えきれなませんでした。しかしそれは一瞬で地獄に落とされました。辞令で「営業本部企画課」勤務を命じられたからです。正直、苦手な営業ははっきり言って嫌でした。でも辛抱して快諾しました。これが良かったです。営業とはいってもカタログ作成やパソコンで顧客管理をする業務だったからです。自分には合っていました。少々失敗して怒られても耐えることができまた。それは、自分に合った好きな仕事が出来たからだと思います。
職場の人間関係も良好でした。バトミントン・駅伝・社員旅行など付き合うだけ付き合いました。社外では地元の青年団に入団しました。活動も勢力的に行いました。でも青年団の活動に参加しているときの自分は自分の思い通りに事が進まないと済まなかったです。それは新聞つくりの時に顕著に現れました。一度締め切りを決めたら自分で間に合わないと思ったら全て自分で作っていたところです。周りから「みんなで作らないと意味ないよ」と忠告されても振り切りました。しばらくして青年団自体が解散し、自分の青年団活動も終了しました。
私生活に目を向けると、22歳の時に結婚を迎えました。その2年後に長男が誕生しました。またその2年後に次男も誕生しました。将来順風満帆に思えました。しかし会社の倒産で夢は打ち砕かれました。失業したのです。

失業の頃

この頃はちょうど次男が生まれた時で、この先どうしていこうかを考えるのと、子供たちの世話で一杯でした。収入は6カ月間雇用保険がありましたが足りず、私の親からの支援でしのいでいました。雇用保険が切れる頃にラッキング補助のアルバイトが入りました。アルバイトは6カ月間続きました。その後に私の父親より地元のケーブルテレビ局が技術職を募集していると聞き私に話がありました。私は即決しました。それは2001年6月の事でした。

ケーブルテレビ就職の頃

その年の9月に工事会社に見習いとして4カ月お世話になりました。そして翌年の1月にケーブルテレビ局に正社員として採用されました。2003年には長女が生まれました。その後7年間はケーブルテレビの保守とネットワーク保守・集合住宅のデジタル化改修工事の現場担当と資格取得のため、勉強に日々昼夜問わず費やしました。疲れ知らずの我武者羅で家庭を顧みず働きました。でもそれは長続きしませんでした。

闘病の頃

突然に腰の痛みが私を襲いました。軽度の「椎間板ヘルニア」と診断され地元の病院に入院しました。3週間ほどで退院出来ましたが、職場に戻る気力がなく、診断の結果は「うつ病」と診断されそのまま自宅療養となり、1年間ほど続きました。その間に病院を2回変え最終的に現在もお世話になっている地元の大学病院に落ち着きました。
会社の体制が変わった後に私は復帰しましたが、万全ではなかったです。発病前の私の仕事は全くしなくてよくなっていました。待っていたのは技術職ではありましたが、書類作成がメインの事務職でした。この頃から私生活では衝動買いや、些細なことでも癇癪を起す行動が多くなりました。自分が何をしているかわからない状態です。人間関係も上手くいかず自殺企図も衝動的に起こしました。再々の入院です。この時に「統合失調感情障害」と診断され今日に至ります。会社からは「会社の経営に付いて来れない」と判断されて退職となりました。

2度目の失業の頃

2度目の失業は病気療養することとしました。収入は今回も雇用保険と私の親の仕送りがメインでした。相変わらず私生活では衝動買いや、些細なことでも癇癪を起す行動」を繰り返しました。自分が何をしているかわからない状態です。人間関係も上手くいかず自殺企図も衝動的に起こしました。また入院です。
しかし、2014年12月にケーブルテレビ局の社長より連絡が入り「チャンスをあげるから戻ってこい」と言われました。「悩みなど何でも相談できる人が一人でも会社にいるなら大丈夫。お前は病気ではない。」と言われ、家族と相談し再度お世話になることとしました。この時の感情は社長に対して感謝の気持ちでいっぱいでした。

再びケーブルテレビに戻った頃

私が戻った時、みんなが私の病気のことを理解し温かく迎えてくれました。社長とも月1回面談が出来ました。この体制なら病状も回復すると思いました。そう思ったのもつかの間でした。またも体制が変わり社長が会長に退きました。面談も打ち切りとなりました。
会社からは技術だけでなく営業もするようにとの命が下り、営業が不得手な私はパニックになりました。この頃からまた衝動的な行動と浪費、また自殺企図と繰り返し、またまた入退院を繰り返しました。会長からは「ケーブルテレビに戻した俺の責任、ケーブルテレビから離れたほうが良いかもしれない。」ということで「2018年2月から1年間は傷病手当金を貰い受け、その間に今後のことを考えよう」と言われ、2019年1月31日付けで退職しました。

傷病手当金受給(4度目の転院)

この一年間で色々と考えることとした。先ずは断酒と規則正しい薬の服用を心掛けた。そしてどうしたら病気が快方に向かうかを考えた。で、あの父親との会話が出てきた。「お前は小さい時から一度言ったらほかの人の意見を聞かない。視野が狭い。引きこもり気味。」、これは心に響いた。私自身、幼少のころからの記憶を思い返すことは無かった。ただ病気を治す事を考えてばかりいた。その時に、ふと「生まれ持った性格?」と考え始めたのである。それから本やインターネットで調べた。調べていく中で自分の半生と合致する症例が一つだけあったそれは「ADHD」で「発達障害」の一種である。私は今まで「病気にさせられた」という気持ちがずっとあり、これが「生まれつきなら」と考え始めると「誰のせいでもない」と分かり心が楽になった。これからは上手く付き合っていき自分の適性に合った職を見つけようと前向きに考えるようになった。この考えに変わったのは、「ADHD」と併発していると導いてくれた今の主治医との出会いでした。

 

ポリテクセンターの頃

2019年5月にポリテクセンターへ入校して「第二種電気工事士」免許を取得しました。

再々就職の頃

2019年9月に電工会社に入社して「電気通信工事」の仕事ができると業務にあたっていたが、「電気通信工事」の業務がなく、主に「第一種電気工事士」の業務内容でした。2019年12月頃から体調を壊し2020.1より休職となります。考えてみたら「自分ができない事を無理にやっていました。」これからは、「自分のできる事を仕事に」と考えるようになり転職を決意しました。

3度目の転職 以降

3度目の転職で2020年3月に「建設会社」へ入社、2020年10月に退職。2021年3月に佐伯税務署に「さいき修理工房」の廃業届を提出。4度目の転職で2021年4月に「冷熱機器製造会社」に入社、2021年8月に退職。5度目の転職で2021年11月に「鉄工会社」に入社、2024年12月に退職。今までの会社で経験してきた私の得意とする分野「資料作成・書類作成代行など」今まで培ったスキルを活かしたくまた、心に障害があっても「病気」ではなく「個性」と考えてますので今後は、社会貢献・恩返しをしていきます。2025年9月から 個人事業主として活動、2025年12月に屋号「YIデザイン工房」としました。